「由佳の家。つまり、美佳先輩の家……」
土曜日の午後、私は日影家の玄関前で大きく深呼吸をした。緊張で心臓がドキドキしている。
エプロンと材料を入れたバッグを握りしめ、また深呼吸をしてインターホンを押す。
少しして、由佳の声が聞こえた。
「待っていたのね」
ドアが開くと、由佳がいつもの冷静な表情で立っていた。
「ごめん、待った?」
「そんなことないのね」
由佳に言われるがままに、恐る恐る玄関の中に入った。
私は、ちらりと家の中を見渡した。広々としたリビング、整然とした家具。
ここが気品溢れる美佳が暮らす家だと思うと、さらに緊張してくる。
亜依をはじめとして、多くの人が行きたくても足を踏み入ることができない場所。私みたいなのが、ひとり訪れて本当に良かったのかな……。
「気楽にしていいのね」
由佳は小さく笑った。でも、確かに由佳の家でもあるけど、美佳と同じ空間にいると思うと緊張がほぐれない。
でも、その割には随分と静かだな……。
「今日って誰も、いないの?」
「千佳姉も美佳姉も、今は出かけてるから」
な、なんだ。二人ともいないの……。それを聞いて少し安堵した。
由佳の言葉にホッとしながらキッチンへ向かう。白を基調としていてモデルハウスのような整然ぶりで、キッチンを使うのが悪いような気がした。
すでに道具や材料が整然と並べられていたことに、私は思わず感心した。
「じゃあ、始めようね」
由佳の指示に従い、私はボウルにチョコを砕き入れて、湯せんにかける。溶けていくチョコの香りが漂い、緊張が少しだけほぐれていった。
「ねえ……これで合ってるの?」
「うん、いい感じなのね。次はココアパウダーを少し混ぜてみてね」
教えられるまま手を動かしていると、なんだか楽しくなってきた。由佳もときどき小さく笑っている。
そんな時、玄関の方から鍵が回る音がした。
「ただいま」
優しい声が響き、リビングの空気がふわっと和らぐように感じられた。現れたのは、あいじょの制服を着たきれいな長い髪の女性。
「千佳姉、おかえり」
抑揚のない由佳の返事。由佳って、千佳に対しても素っ気ないな……。実の姉妹じゃないと、私は千佳にはできないな……。
「あら、お友達?」
「お、お邪魔しています! こ……、こないだは二度もぶつかって、ごめんなさい……」
「ああ、入山藍ちゃんね。気にしていないから、いいのよ」
由佳が教えてくれたと思うけど、千佳に覚えてくれて嬉しかった。
「……由佳。このやり方だと、型に流したときにムラができるよ!」
「千佳姉が教えた通りにしているのね!」
ゆ、由佳さん。いくら血縁の姉妹だからって、千佳さんにそんな反抗的なこと言っちゃダメだって……。
私が二人のやりとりに不安を感じているが、二人は私を気にする様子もなかった。
千佳は、ボウルの中身をじっと見つめる。
「ほら、こうやって空気を抜くように混ぜるのよ」
千佳が手を伸ばしてボウルを持つと、慣れた手つきでチョコをかき混ぜ始めた。
「千佳さん、すごい……」
その手さばきに、つい見とれてしまった。
「口出ししないのね!」
「だって、由佳の手際が悪いのよ!」
「うるさいのね!」
二人のやり取りに、私は思わず苦笑いしてしまった。
チョコも完成間近になった頃、再び玄関の方から声が聞こえた。
「ただいま」
聞き覚えの声に、私は一気に緊張のピークに達した。
リビングに姿を現したのは、予想通り美佳だった。軽く髪を整えながら、こちらを見て柔らかい笑顔を浮かべている。
「入山藍ちゃんでしょ? いらっしゃい」
み、美佳先輩が私の名前を知ってくれている……!
「あっ……、あの……。ゆ、由佳さんにチョコレート作りを教えてもらってて……」
声が震えずにいられなかった。だって、美佳は軽く目を丸くして、楽しそうに笑った。
「楽しそうだね。ちょっと味見してもいい?」
「えっ……。も、も、もちろんです!」
美佳がつまんだチョコを口に入れた瞬間、私は息を飲んだ。
「……うん、おいしい! すごく丁寧に作ってるね」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなった。あの美佳に褒められるなんて、夢みたい……。
「由佳のおかげで亜依へのプレゼントが作れた!」
完成したチョコレートを袋に詰めながら、私は亜依の喜ぶ顔を思い浮かべた。
「これを渡して、亜依ちゃんに気持ちを伝えたい……」
由佳の家で過ごした時間は、私にとってかけがえのない一日となった。